<教会員を評価する客観的尺度について>

 人には、目に見えるものがあると安心しやすい、落ち着くという性質があるようです。

 どんな宗教でも、何もないところで拝むのではなく、何かしら目に見えるものが置かれていることが多いのではないでしょうか。
 仏像があったり、絵があったり、札があったりします。カトリック教会でもマリヤさんの像があったりします。
 でも、神様は、聖書の中で、偶像を作ってはいけないと言われています。
 神様は目で見ることはできません。
 目で見えない神様を、目に見える形に作り変える、矮小化するようなことはしてはいけませんということです。
 目に見えない神様を目に見えないままで信じ、礼拝しなさいということです。
 そんな状態で神様を信じるのは、なかなか難しいことです。
 けれども、偶像がないほうが、神様との関係がより深い、より真実な、より日常的なものになるということなのかも知れません。


 見えないと言えば、人の心の中も目で見えません。
 人が何を考えているのか、何を思っているのか、ほかの人にはわかりません。
 顔の表情であったり、しぐさであったり、行動の内容から、その人の心の中を想像することは、ある程度できます。
 ですが、本当の気持ちや複雑な心の動き、本当の動機、心の深層にあるものについては、ほかの人は知ることはできません。
 それができるのは神様だけです。

 ですので、人がある人を評価しようとする場合には、目に見える客観的な尺度を用いることになります。
 教会の中でも、ある人が別の人を評価するという場面があるかも知れません。
 たとえば、ある教会員の「信仰の強さ」を評価するために、礼拝や祈祷会への出席率、奉仕への参加の頻度、どのくらい聖書を読んでいるか、どのくらい祈っているか、少しいやらしいですが、献金の額などを調べるかも知れません。
 このような尺度で、評価されることが多い場合、クリスチャンが自分自身を評価する時でさえ、この尺度を当てはめるようになります。
 より良い評価になるように、礼拝出席率をあげようとしたり、よりたくさん献金しようとしたりするわけです。
 ですが、このような尺度は、神様から見たら全く意味のないものです。
 たとえば、いくら礼拝出席率のいい人がいたとしても、心の中は神様から遠く離れていることはあるのです。
 それとか、小学生の時は教会学校に皆勤だった子が、中学生になって部活が始まったとたんにパタッと教会に来なくなってしまうなんて、どこの教会でも経験することではないですか。
 この子は、礼拝出席率 100% だから安心と評価して、本質的な対応をしていないと、望まない結果を招くことになるのです。
 イエス様も、献金の額で人を評価してはいけないと言われています。

 会社で、業務や経営上の改善をするために、いろいろな活動を客観的な数字にして、PDCAサイクルを回すのは、有効なやり方だと思います。
 ですが、教会内の活動や教会員個人の評価のために、こういう客観的な尺度を重視するのは、有害なことが多いと思います。


 聖書にこうあります。

しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
サムエル記第一 16章7節

(続く)