<私たち一人ひとりは体の別々の器官のようなもの>

 今日は(その8)の続きです。
 少し長いのですが、聖書の一部を引用します。


12,ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

14,確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
15,たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
16,たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
17,もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
18,しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
19,もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
20,しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
21,そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
22,それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23,また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
24,かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
25,それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26,もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27,あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
コリント人への手紙 第一 12章12,14-27節


 この箇所には、キリスト教会の各メンバーがどういう関係にあるのかということが書かれています。
 でも、クリスチャンでない人の集まりにおいても、あてはまることが書かれていると思います。

 人間社会においては、いろいろなスケールの人の集まりがあります。
 「家族」という集まりもあるし、「同じ職場」とか「同じ学級」とか言う集まりもあります。「同好会」とか「同じ趣味の人の集まり」みたいなものもあるでしょう。「同じ町の住人」とか「同じ国の国民」とかも人の集まりです。もっと言えば「人類全体」というのも人の集まりです。
 神様は、人を一人ひとり違ったものとして造られました。世界には何十億もの人がいますが、あなたと同じ人は一人として存在しません。
 上の聖書の箇所を見ると、からだには多くの器官があると書かれています。人の集まりにおいて、各メンバーはみんな違っています。それぞれ違った長所があり、それぞれ違った弱点があります。
 神様は、多様性を大切にされるのだと思います。
 体には多数の多様な内臓や器官があるのですが、それぞれ違った働き、役割があるわけです。
 メンバーはみんな違っていて実に多様なんだけれども、全体としては調和のとれた一つとなるというのが、神様のやり方です。
 ここで神様が、各メンバーに期待されていること、考え方は以下のようになるでしょう。
  ・多様なメンバーがいることを認める。受け入れる。尊重する。
  ・どのメンバーも大切。必要ないメンバーはいない。
  ・分裂しない。
  ・いたわりあう。
  ・もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ。

 神様は、このようなことを人間に期待されているわけですが、実は期待されている通りのことを実行、実践できる人は誰もいないのです。
 「毎日が大吉です。」(その8)
http://yasushikomatsu.blog.jp/archives/10314324.html
に書きましたが、人には罪の性質があります。喜ぶ人と共に喜んだり、泣く人と共に泣くなんてことは、普通はできないんです。
 でも、人が神様の愛に触れて、変えられていけば、徐々に理想に近づいていけるんだと思います。
 各メンバーがこのような理想に近づいていくほど、その集まりは成長していると言えるんだと思います。
 すべての人が発展途上人であるのと同様、すべての「人の集まり」も永遠に発展途上です。

 人は誰でも不完全で、失敗を繰り返すものですが、心配ありません。
「私はカーナビが好きです。」
http://yasushikomatsu.blog.jp/archives/9623886.html
に書きましたが、何度失敗しても神様は決して見放さず、常に寄り添って、最善の選択肢を示し続けてくださいます。何度でも再挑戦できるのです。自分の失敗したみじめな姿にばかり目を向けていると、落ち込むばかりですが、責めることなく何度でもチャンスをくださる神様に目を向けるならば、日々喜びと希望を持って進んでいくことができます。そうするうちに、知らない間に少しずつ成長をとげていることでしょう。