小松邦志ブログ

小松邦志がふだん考えているいろいろなことを順不同で書きます。  医学、医療のこと、旅行のこと、クリスチャンとして考えていること、趣味のこと、政治のことなどが主な話題になると思います。

 今日は「患者さまが自分の人生の主人公になることのできる医療とは」のその2です。

 その1では、患者様が自分の人生の主人公になれていない原因について考察しました。
 今日はその続きです。
 今日のキーワードは「対等」です。

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<医師と患者は、人間として対等>
 私は、医学生の頃から医師と患者は対等であると考えていたように思います。医師は、豊富な医学知識を持ち、治療の技術を持っていますから、たしかにその点では患者よりも上でしょう。でも人間として優れているわけではないし、患者が劣っているというわけでもありません。医師は患者さんの人生や価値観に敬意を払い、尊重しなければなりません。医者は、知識や技術を駆使して、患者に仕えるべき存在です。対等なんですから、医師は患者に対して、命令や指示をしたり、束縛することはできません。医者がするのは、よくわかるように説明をしたり、助言をしたりすることのはずです。助言や説明を聞いたうえで、どのような治療を受けるのか、どのような生き方をするのかは、患者さんが自分で決めるのです。

<なぜ対等を意識する必要があるのか>
 たいていの患者は、医師に対して遠慮やひどい時には恐れを感じています。特に入院中だったりすると、医者の機嫌をそこねたら、ちゃんと診てもらえなくなるのではないかと心配されることが多いのではないでしょうか。遠慮や恐れがあると、思っていることが言えなくなります。そうなると、患者の正確な状態が医師に伝わりにくくなって、治療が不適切になることもあります。患者の気持ちがわからないと、患者が自分の人生の主人公になることはなおさら難しくなります。

<どうしたら対等になれる?>
 医者はもともと患者よりも優位な立場にあるのですから、意識的に自分を下げるぐらいでないと、とても、対等な関係にはなれません。
 私は自分を下げるためにしていることがいくつかあります。まずは偉そうにしないことですね。姿も姿勢も態度も、意識してあまり医者らしくないようにしています。私は、よく人から医者らしくないと言われるのですが、自分に対するほめことばだと思って、喜んでいます。それから、相手を見下ろすような位置に立つのではなく、同じ目の高さになるように心がけています。できるだけ患者さんに自由に話してもらうようにして、話をさえぎらないようにします。患者さんが何を言っても、「でも」とか「そうは言っても」などの逆接の言葉を使わないようにします。「無理です」とか「ダメです」みたいな否定的な言い方も避けるようにしています。

(続く)

 患者様の人数が増えてきたことに伴い、常勤の医師1名を募集します。

 こひつじクリニックは訪問診療、往診を中心としたクリニックです。
 内科的な患者様が多いのですが、一般レベルの内科診療ができるのであれば、他科の先生でもかまいません。
 当クリニックは、たくさんの患者さんをさばいて、儲けるようなスタイルではありません。
 一人ひとりの患者様とのつながりや患者様の物語を大切にし、患者様の生きがい、希望、喜びが大きくなるような関わりをすることを考えていきたいと思っています。

 こひつじクリニックでは、患者様の旅行や外出に医療スタッフが同行することによって、不可能だった旅行などを可能にし、患者様が生きがい、希望、喜びを感じられるようお手伝いするということも行っています。この働きに関心をお持ちの先生もぜひご応募ください。

 お給料や条件などについては、相談の上で決めていきましょう。
 お気軽に yasushikomatsu@yahoo.co.jp までメールください。
 よろしくお願いします。


 ご参考のために

こひつじクリニックの医師について
http://yasushikomatsu.blog.jp/archives/9219965.html

自己紹介
http://yasushikomatsu.blog.jp/archives/9085998.html

こひつじクリニックのテレビ番組の販売を開始します。
http://yasushikomatsu.blog.jp/archives/9356957.html

 今日はクリスチャンネタです。
 毎日が大吉ですシリーズは今日は1回お休みにします。

 「人に迷惑をかける。」
 「人の世話になる。」
 この二つの言い回しは、違う意味を持つものではありますが、似ている部分があります。
 今日は、人の世話になるのは悪いことかというテーマで考えていきましょう。

 私たちは、人に迷惑をかけてはいけない。できるだけ人の世話にはならない方がいいと考えがちだと思います。
 私は子どもの頃から、「人に迷惑をかけてはいけません。」という言葉を、自分に対する言葉としても聞いてきましたし、人がこう言われるのもよく聞いてきました。
 でもよく考えてみると、人の世話にならずに生きていける人が、世の中に一人でもいるでしょうか。人は一人では生きていけません。必ず誰かの世話になりながら生きているし、誰かに迷惑をかけながら生きているのだと思います。

 私の娘の話です。
 もうだいぶ前になりますが、遠足の前日に階段をふみはずして足首を骨折してしまいました。行きたかった遠足に行けるかどうか危ぶまれました。なんとか松葉杖をつきながら遠足に行くことになりました。すると級友がいろいろな場面で助けてくれて、車いすを代わる代わる押してくれたそうです。もちろん、娘は喜びました。それだけでなく、いろいろと助けてくれた級友たちも喜んだというのです。
 なぜ級友たちは喜んだのでしょうか。
 娘が喜ぶ様子を見て喜んだのでしょう。自分が人の役に立てたことも喜んだでしょう。みんなで喜び合うことができたことも喜んだのだと思います。
 すばらしい級友たち、すばらしいスクールだと私は思いました。

 人は、みな、違った存在として神様に造られています。それぞれが違った弱さを持っています。それをカバーしあって、支えあって生きることを神様は望んでおられるのだと思います。そんな生き方をする時に幸せを感じるように、人は造られているのだと思います。
 支えられる人は、そのことによって喜びや幸せを感じます。支える人は相手の喜んでいる姿を見ることによって、喜びや幸せを感じるのです。

 目先の損得だけを考えて行動するということであれば、こんな生き方はできません。
 聖書には「受けるよりも与える方が幸いである」と書かれています。
 損のように思えても、まず与えるという生き方ができたらすばらしいと思います。

 まず自分の幸せを追求するのではなく、相手の幸せ、周りの人の幸せを追求する。
  そうすると、相手が幸せになるし、いつの間にか自分も幸せになるのだと思うのです。

 私はそんな生き方をしたいと思っています。

 できるだけ人の世話にならないようにしようとがんばる必要はないのです。あまり遠慮しすぎずに助けてもらって、自分はまたほかの人を喜んで進んで助けたらいいのだと思います。
 人は助け合う存在として造られているのですから。

 2015年に、ある小さい学会で「患者さまが自分の人生の主人公になることのできる医療とは」と題して発表させていただきました。その内容を文章にまとめたものを数回に分けて紹介させていただきます。

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患者さまが自分の人生の主人公になることのできる医療とは

<はじめに>
 一般に、人は誰でも自分の人生の主人公だと考えられます。しかし、医療の世界では必ずしもそうではありません。むしろ、重い病気や障がいを持つ方にとっては、自分の人生の主人公になることはかなり難しいことです。その原因や対策について考察しました。

<患者が自分の人生の主人公になれない原因>
 以下のような各種の原因が考えられます。

(1) 物理的な要因
 家の中も町の中もあまりバリアフリーになっていない。移動の自由が妨げられていることが多いんです。動きたい時に動けない。行きたいのに行けないということになりがちです。家の中のちょっとした移動でさえ難しくなる場合もあるでしょう。自分の希望がかなえられず、あきらめることを余儀なくされます。あきらめるのが普通、あきらめるのが当たり前という毎日になってしまいます。

(2) 心理的な要因
 病気になったり、障がいを持ったりして「生産的」なことができなくなると、自分には価値がないと思ったりします。生きていても、何の人の役にも立てない。自分は家族や社会のお荷物だと感じて、自分の希望や願いが言えなくなってしまいます。遠慮して、引っ込み思案になってしまって、心が萎縮してしまいます。

(3) 経済的な要因
 自分で稼げなくなると、お金のかかることはできなくなります。ただでさえ、重い病気を持った方の場合、生活する上で普通の人よりも余分にお金がかかってしまうことが多いかも知れません。この先、生きている間どれほどお金が必要かということを思うと、ふだんの出費をできる限り抑えようとするのはやむを得ないことと言えるかも知れません。

(4) 医療スタッフの要因
 従来、患者の治療方針は、患者の希望や願いをほとんど聞くこともなく、医師や看護師により決められてきました。医療スタッフ側には、患者が自分の人生の主人公という意識はなく、患者に対して指示や命令しかしません。医療スタッフは、自分たちの価値観や習慣に基づいて意思決定を行うわけですが、それは往々にして患者の価値観や願いに反するものとなります。
 二つ例をあげます。

 ・癌の治療
  癌の種類、部位、進行度などによって、最も5年生存率の高い治療法(手術、抗癌剤、放射線治療など)が選択されます。昨今、EBM (evidence based medicine) と言って、治療をする場合にはデータや根拠に基づいて治療法を選択するということが勧められています。以前は医師の経験や直感に頼って治療法が選択されていたわけなので、EBM が推進されるのは悪いことではなく、医療の進歩とも言うことはできます。しかし、患者の希望、願い、価値観ぬきに治療法が選択されるのであれば、やはりそれは問題でしょう。医師から提示された治療法を拒否する権利が患者にはあるのですが、言われるがままに治療を受けてしまう場合が多いと思います。寿命が伸びるというのは一般的には良いことと考えられますが、それと引き換えにつらい副作用に悩まされるようになったり、長期の病院や施設での生活を強いられるようになるのだとしたら、もっと別の選択があるのではないかと思ってしまいます。

 ・胃瘻
  病状の進行や加齢により、食欲が低下したり、嚥下の力が弱ってきたりすると、胃瘻造設が勧められ、経管栄養が始められる場合が多くあります。従来、医療の使命は患者を少しでも長生きさせることと考えられてきました。その医療観にしたがえば、食べられなくなったら、経管栄養をして命が続くようにするというのは当然の選択ということになります。でも実際の医療の現場で、そのような患者を多く見てくると、すべての胃瘻造設が悪いとは言えませんが、多くの場合、それが患者の幸せにつながっているのか疑問ですし、そもそも患者がそれを望んでいなかったのではないかと思われる場合が少なからずあります。

(5) 社会の要因
 資本主義社会では、金こそが目的であり、手段であり、評価基準です。金を生み出せない人は、社会から価値のないものとして疎外されます。資本主義的価値観は、あまりに広く、大多数の人に植えつけられてしまっているので、患者の家族でさえ、患者に対してそのような思いをいだいてしまいがちです。

(続く)

 今日は私のヨットを紹介します。
 2007年に Yahoo オークションで格安で買いました。
 神戸市垂水区のフィッシャリーナにとめてます。PB030145
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 23フィートで定員は8名です。

 目の前に明石海峡があり、明石海峡大橋がかかっています。
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 対岸に見えるのは淡路島です。

 神戸徳洲会病院時代の仲間たちとちょっと海に出た時の写真です。
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 娘と淡路島1周に出かけました。娘は淡路島南端まで行ったところで give up して、陸に上がり帰ってしまいました。私はその後一人で航海を続け、76時間ぐらいかけて1周できました。

 長男とは姫路の沖にある鞍掛島という無人島に行ってキャンプをしました。なかなか面白い体験でした。

 次男とは、和歌山の友ヶ島という無人島に行ってキャンプをしようと出かけたのですが、強風のためたどり着けず、引き返してきたということもありました。

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 私の夢は、ヨットで世界一周です。

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